家族と話していると終始ありもしない世間体を気にしていた。結婚がどうだ学歴がどうだ。親と一緒に僕を育ててくれたご近所のおじ様おば様方をそんな狭量な人間に仕立て上げないでくれとお願いしたのだが、この世間体の本質は自分の中の被監視意識だ。つまり自分の中のコンプレックスを他人が笑っているのではないか、他人がそれを許容せず見捨てられるのではないかという不安が内面化されたものだ。
心理的な発達の中では、他者の批判をどうにかこうにか乗り越えて、笑われてもいいじゃん、意外と受け入れてもらえるんだ、という経験をどこかで経る必要があるのだけれど、田舎のように住宅密度が低く、移動距離が長く、必要以上に顔見知りを作らない文化の元では、そのような経験が得がたい。メディアの数も少ない分、あるべき像の多様性も小さく、コンプレックスを埋めるために手に入れてきたものもいつ失われるかと言う不安と、コンプレックスを強化する。
ましてや経験や機会がないために今のコンプレックスだらけの自分から抜け出せない、という「トラウマ経験」を自分の中に作り出してしまうと大変なことになる。「今の環境じゃなければこんな自分にならなかった」と何もかもを常に他人のせいにする。攻撃的な人格が出来上がってしまい、それでも田舎から出るつもりがないのでお互いに自分を擁護しながら相手を攻撃するような会話ばかりが繰り返され、閉塞感に拍車をかける。家族や兄弟はコンプレックスを寛容に受け入れてくれるはずの存在であるのが理想だが、田舎の中間層の現実は、常に家族や兄弟から世間体を求められる。
考えてみれば、近所で悪口を言う人なんて基本的に嫌われるか信用を失っていくし、平均年齢が上がっていくなかで年配の人間にそんな圧力をかけられる権力も暇もあるとは考えにくい。結局自分のコンプレックスにちかい会話が出てきたときに世間体を纏い、自分を守っているのだ。世間体は家族を経て次世代に受け継がれ、負の連鎖としてミーム化する。専門学校で学ぶ内容でこれらの世間体を乗り越えるような経験ができるとは到底思えない。
家族は東京の人は冷たいとか周りに無関心だとか言う話をしていたが、そういうムラ的な、自分の中に、過剰に自分を監視し続けるような機能を内面化してまで生きていたくない人たちが地方から流れてくるのかもしれない。